『八甲田山』(はっこうださん)は、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』を原作とする映画。1977年公開。東宝・シナノ企画製作。極限状態での組織と人間のあり方を問いかけた作品。当年の興行収入の1位を記録した。
高倉健(弘前第三十一連隊・徳島大尉(モデルは福島泰蔵大尉))、北大路欣也(青森歩兵第5連隊・神田大尉(モデルは神成文吉大尉))、三國連太郎(同・山田少佐(モデルは山口少佐))主演。北大路欣也のせりふ「天は我々を見放した」が当時の流行語になった。
題材[]
1902年(明治35年)に青森の連隊の雪中行軍の演習中に遭難し、210名中199名が死亡した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材にした作品である。実際には二つの連隊間で競争を行ったわけではないが、映画では弘前の連隊と青森の連隊との競争意識の中で、編成などが後手に回った青森側が無理をしたことが原因の一つとされた。
映画撮影の際、実際に真冬の八甲田山の中でのロケを敢行し、日本映画史上類を見ない過酷なロケとして有名になった。実際に俳優数名が過酷なロケに耐えられず脱走したという話も残っている。
キャスト[]
- 弘前第8師団
- 友田少将(第4師団長):島田正吾
- 中林大佐(参謀長):大滝秀治
- 弘前歩兵第31連隊
- 徳島大尉(第1大隊第2中隊長):高倉健
- 児島大佐(第31連隊長):丹波哲郎
- 門間少佐(第1大隊長):藤岡琢也
- 田辺中尉:浜田晃
- 高畑少尉:加藤健一
- 船山見習士官(気象担当):江幡連
- 長尾見習士官(疲労度調査):高山浩平
- 倉持見習士官(装備点検):安永憲司
- 斉藤伍長:前田吟
- 松尾伍長:早田文次
- 川瀬伍長:吉村道夫
- 加賀二等卒(喇叭手):久保田欣也
- 小山二等卒:広瀬昌助
- 佐藤一等卒:樋浦勉
- 徳島の従卒:渡会洋幸
- 青森歩兵第5連隊
- 神田大尉(第2大隊第5中隊長):北大路欣也
- 山田少佐(第2大隊長):三國連太郎
- 倉田大尉(第2大隊本部):加山雄三
- 津村中佐(第5連隊長):小林桂樹
- 本宮少佐(連隊本部):神山繁
- 沖津大尉(大隊本部):玉川伊佐男
- 三上少尉(連隊救助隊):森田健作
- 伊東中尉(第1小隊長):東野英心
- 中橋中尉(第2小隊長):金尾鉄夫
- 小野中尉(第3小隊長):古川義範
- 鈴森少尉(第4小隊長):荒木貞一
- 中村中尉(第5小隊長):芹沢洋三
- 野口見習士官(中隊本部):山西道広
- 田村見習士官:日和田春生
- 井上見習士官:中野裕
- 進藤特務曹長:江角英明
- 今西特務曹長:井上博一
- 藤村曹長:蔵一彦
- 谷川曹長(第5小隊):森川利一
- 村山伍長(第5中隊):緒形拳
- 高橋伍長(第1小隊):海原俊介
- 渡辺伍長(第2小隊):堀礼文
- 花田伍長(救助隊):伊藤敏孝
- 江藤伍長:新克利
- 平山一等卒:下条アトム
- 長谷部一等卒:佐久間宏則
- 小野中尉の従卒:浜田宏昭
- 永野軍医:竜崎勝
- 凍死する青森歩兵第5連隊兵士:大竹まこと
- その他
- 神田はつ子(大尉の妻):栗原小巻
- 徳島妙子(大尉の妻):加賀まりこ
- 滝口さわ(案内人):秋吉久美子
- 少年時代の徳島:石井明人
- 斉藤伍長の伯母:菅井きん
- 西海勇次郎(記者):船橋三郎
- 作右衛門(村長):加藤嘉
- 滝口伝蔵(村人):花沢徳衛
- 沢中吉平(案内人):山谷初男
- 福沢鉄太郎(案内人):丹古母鬼馬二
- 沢田留吉(案内人):青木卓
- 大原寅助(案内人):永妻旭
- 鈴木貞雄(宿の主人):田崎潤
- 中里村の老人:浜村純
あらすじ[]
テンプレート:ネタバレ ロシアの満州南下にともない大陸での開戦不可避と見られた1902年、厳冬期の満州平野での装備品の研究および行軍調査・予行演習を目的として友田少将(モデルは友安少将)は、冬期八甲田での雪中行軍の実施を五連隊と三十一隊に提案(実質的には命令)した。会議のあとに児島大佐(モデルは児玉大佐)と津村中佐(モデルは津川中佐)はどうせなら八甲田ですれ違う行軍計画にしようと同意する。そして出発前、弘前の徳島大尉の私邸で勉強会を終えた徳島と神田は、雪の八甲田での再会を誓い合った。
しかし、神田の五連隊は、単なる雪中行軍調査のための随員で指揮権のないはずの大隊本部・山田少佐の口出しによる指揮系統の混乱で遭難。徳島との再会を果たさず、遭難の責任を取り、神田は舌を噛み切って雪中で自決した。
神田の遺体は収容されたが、その霊は雪中で徳島を待ち、二人は雪の八甲田での再会を果たす。もちろんこれは過酷な寒さによる徳島の幻想で、後に五連隊の遺体収容所において徳島は収容された神田の遺体と対面し、神田の妻の目前で号泣する。
結果的に、三十一連隊は負傷者1名を汽車で弘前に帰した以外は全員八甲田を無事踏破し生還を果たした。一方、五連隊は大隊本部の倉田大尉(モデルは倉石大尉)の引率の下、12名しか生還することができなかった。その中には人事不省のまま生還した山田少佐もいたが、彼は遭難の責任をとり、病室において拳銃で心臓を撃ち抜き自殺した。
雪中行軍を無事成功させた徳島大尉や奇跡的に生還を果たした倉田大尉ら生存者も、二年後の日露戦争中の黒溝台会戦において、二昼夜飲まず食わずに奮闘し、戦いを勝利に結びつけ全員戦死するという苛烈かつ悲壮な最期を遂げることを語って物語は終わる。
関連項目[]
- 八甲田山(遭難地)
- 八甲田山死の彷徨(原作の小説)
- 八甲田雪中行軍遭難事件(史実)
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