テンプレート:独自研究S テンプレート:半保護S テンプレート:Infobox お笑い芸人
ビートたけし(本名:北野武(きたの たけし)、1947年1月18日 - )は、東京都足立区出身、オフィス北野所属のお笑いタレント、映画監督、俳優、東京芸術大学大学院映像研究科教授、元漫才師(ビートキヨシとともに、ツービートとして活動)であり、日本国外では映画監督としての知名度が高い。愛称は「たけちゃん」・「殿」等。映画関係では本名の「北野武」、それ以外では「ビートたけし」を名乗ることが多い。また、立川談志一門であり高座名「立川錦之助」を持つ。
来歴[]
幼少時代[]
東京都足立区島根町にて、ペンキ職人の父(北野菊次郎)と、母(北野さき)の四男(次男が夭折し、実質は三男として育つ)として生まれ、「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「武(たけし)」と命名された。色白で細面、身体は小さいが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母に非常に可愛がられて育った(家族構成は「家族・縁戚」を参照)。
足立区立梅島第一小学校に入学。教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績は優秀で、特に算数と図画工作が得意だった。小学校卒業後は母親が進学校を希望したため、近隣の中学ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ入学した。中学卒業後、東京都立足立高等学校に入学。なお、小・中・高といずれも野球部に所属(高校は軟式野球部)したが、高校時期にヨネクラジムにボクシングを習っていたという。なお、演芸場時代は漫才師の野球チーム『メダトーズ』に加入していた。
また、落語も好きで、古今亭志ん生と、立川談志の「こゑん時代」のファンだった。
大学時代[]
1965年(昭和40年)に 高校を卒業後は母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学。しかし大学2年の時、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。
学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズに傾倒する。“LeftyCandy”や新宿ACB(アシベ)、風月堂などに入り浸った。また、ジャズ喫茶のボーイもしたが、ジャズの見識は一部で有名であった。新宿のジャズ喫茶『ビザール』では、若松孝二、小水一男らと知り合う。『ヴィレッジ・ヴァンガード』で、早番のボーイとして働いていた時は、連続射殺事件で逃走中だった永山則夫が遅番のボーイとして働いていた。『ジャズ・ビレッジ』の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったという。[1]。
この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごし、ジャズ喫茶以外にも、菓子の計り売りや実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイなど仕事先を転々とする。羽田空港の荷役業では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共に働いた。のち通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演[2]したり、学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという。
大学は140単位のうち106単位まで取得していたにも関わらず、結局通学せずに除籍となった(なお、2004年9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」[3]及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受けた)[4]。
前座時代[]
学生運動が収束に向かったこともあって、自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能に興味はあったが、アングラ演劇には馴染めず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう[5]」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。
1972年(昭和47年)夏、浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。当時、たけしと思しき人物を見た井上ひさしは「不機嫌そうな青年[6]」と、その印象を述べている。やがて、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学ぶ。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため深見から気に入られた。舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれるようになった。
ツービート結成[]
テンプレート:Main フランス座に出入りしていた2年先輩の兼子二郎から漫才コンビを組むよう誘いを受け、当時フランス座は経営難で給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、『松鶴家次郎』の芸名で舞台に上がることを了承した(兼子の芸名は『松鶴家二郎』)。
当初は正統派の掛合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。兼子が一時コロムビア・ライトの付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で空たかし・きよし(コロムビア・トップ・ライトの一門は皆「青空」の家号を名乗るが、片方の弟子なので「空」だけとなった。)と名乗り営業に出たこともあった。演芸場のギャラは安いため、地方キャバレーなども回るようになるが、たけしは酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり、酩酊して舞台に上がることが多かった。また、店を誹謗したり、客やホステスに喧嘩を吹っ掛けたので、度々舞台から降ろされた為、兼子は場繋ぎに使う奇術ネタを用意していたという。そしてこの頃から「暴走ネタ・危険ネタ」へシフトしていった。
紆余曲折ののち、2人はコンビ名を「ツービート(two beat)」へと変更し、兼子は「ビートきよし」、たけしは「ビートたけし」を芸名とした。
この頃、大阪で頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。 服装もタキシードに蝶ネクタイからアイビー・ルックに変えて、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは代演で松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。毒舌の限りを尽くした掟破りのネタもさることながら、ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行なうなど型破りな舞台が多く、ツービートが漫才を始めると(他の芸人が観に行くので)楽屋が空っぽになると評判になった。
黎明期[]
演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受け、漫才協団から脱退を求める声すら起きたという[7]。1976年(昭和51年)協団が主催するNHK新人漫才コンクールにツービートは3年連続で出場したが最優秀賞を獲得することは出来なかった。
1978年(昭和53年)、新宿区高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する漫才ライブを開催したが、この企画をした高信太郎との繋がりでたけしも、高平哲郎、赤塚不二夫、タモリらと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わずじきに離れた。
1979年(昭和54年)、女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキと結婚。犬吠埼(千葉県)にて新婚旅行を済ませたのち、亀有のアパートで生活を始める。
11月、澤田隆治プロデュースの「花王名人劇場」において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。才気絶倫だが古典派から「邪道」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、やはり「花王名人劇場」での「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、のちの漫才ブームへ繋がった。
漫才ブーム[]
1980年『マンザイブーム』(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)が起こり、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物にB&B、ザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。
速射砲さながらに喋りまくり、時おり弾倉を交換するかのごとく首を「くっ」と捻るたけしの姿は、個性派揃いの漫才師の中でも異彩を放った。その毒舌が織りなすネタの主題となったのはジジイ・ババア・ブス・カッペ(田舎者)で、さらにウンコとヤクザとガキが頻繁に登場した。また、金属バット殺人事件や深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいちはやくギャグに取り入れた。これらの不謹慎ネタは「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、それに対してたけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にきちんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば恐くない」等の一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。
1980年6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに約85万部の売上となったが、当初事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込み、印税全額を二人が受け取る契約を結んでいたため大金が転がり込んだという。
この時期に、ツービートとして出演していた『スター爆笑座』(TBS)の司会であったせんだみつおと楽屋で雑談中に、たけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグが生まれた。[8]1981年1月、TBSで『二百三高地』の連続ドラマが製作され、ツービートは兵卒役として出演したが、たけしは乱戦の最中『コマネチ!』で自己主張をはかり監督以下の顰蹙を買った。後年ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した際には、『コマネチ!』という記念本に寄せてコマネチ本人から祝福の手紙が贈られた。
1981年10月、フジテレビは漫才師による昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』で、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。1982年10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し「何でもゲラゲラ笑いやがって!本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った[9]。
1982年(昭和57年)の夏にはブームは完全に収まったが、“タレント・ビートたけし”として漫才以外でも世間に知られるようになる。以降、単独で司会をする番組を多く持つようになった。
漫才ブーム以後[]
漫才ブームを生き残ったたけしは自身のスタイルを大きく転換させる。毒舌家というパブリックイメージはそのままに、ネタに依存する消耗度の高い喋りを捨て、パーソナリティを軸とした芸風に移行していく。
また、1981年(昭和56年)元旦からニッポン放送(LF)系のラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」、1981年(昭和56年)5月からフジテレビ(CX)系の『オレたちひょうきん族』が夫々開始された。
1982年から84年にかけて番組出演中に弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)が押しかけ、相当の数が集まった事(「たけし軍団」)から、集団で行うバラエティを模索しNTV系スーパージョッキー、TBS系笑ってポン等が始まった。また、博識が評価されTBS系世界まるごとHOWマッチ等で文化人的な出演要請も増えた。
- NTV=スーパーJOCKEY
- NTV=天才!たけしの元気が出るテレビ
- ANB=ビートたけしのスポーツ大将
- TBS=風雲!たけし城
- NTV=OH!たけし
- TBS=世界まるごとHOWマッチ(MBS制作)
- CX=オレたちひょうきん族
- LF=オールナイトニッポン
上記は1985年当時のレギュラー番組全てであるが、このうちNTV ANB TBS CX全ての20時台の最高視聴率をマークした。尚、たけし城、元気、スポーツ大将は全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。その他放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、“たけしの挑戦状”等のゲーム企画も行った。この頃より、タモリ・明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。
映画監督「北野武」[]
「その男、凶暴につき」(1989年)は、監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化を予定し、配給の松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致しなかった為、深作が監督を辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では「北野」で表記)に監督の依頼を持ちかけたところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。映画監督・北野武としてのデビュー作『その男、凶暴につき』は1989年に予定通り公開された。
1997年(平成9年)、映画「HANA-BI」が、第54回ヴェネツィア国際映画祭で日本作品として39年ぶりとなる金獅子賞を受賞した。発表直後、北野は「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「また日伊同盟を組んで他国を攻めようぜ」と英語でスピーチ。帰国時の記者会見で現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して笑いをとった。
第52回カンヌ国際映画祭(1999年)コンペティション部門に正式参加した映画「菊次郎の夏」で約10分間のスタンディングオベーションを受けた。
2005年4月に東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した(監督領域の教授は北野含めて2名のみ)。北野大も淑徳大学教授であったので兄弟で教授となった。
2007年8月、第60回カンヌ国際映画祭にて、北野の映画監督作「監督・ばんざい!」に基づき「GLORY TO THE FILMMAKER」賞が新設され、表彰式に出席した。
自著「時効」の中で40代中盤を迎えたあたりから頭の回転が鈍り言葉が出にくくなる、突っ込みが鈍くなるなどの年齢からくる衰えが出始めたが当時はまだまだタレントとして盛りで世間が俄然たけしの毒舌を期待していたためギャップで悩んだと述べている。そして同著の中では「もう若いときのような毒舌は出来ないからテレビに出る時は面白いおじさん的な立場で出られればいい」とも述べている。
2008年6月19日、第30回モスクワ国際映画祭で「特別功労賞」(Life-time Achievement Award)を受賞。2003年の新藤兼人監督に次ぐ2人目の日本人受賞者となった。20日の会見では「ロシアの人は自分(北野)を過大評価している」「数々の芸術家が出ているロシアで表彰されるのは恥ずかしい」と語った。映画祭では「HANA-BI」や「Doll」「座頭市」など6作品が上映される。
「キタノ映画」[]
「キタノ映画」の特徴[]
「キタノ映画」のビジュアル面での最大の特徴は、「キタノブルー」と評される青の色使い。また、多くの作品で登場人物の「死」が描かれ、青みの深い画面のもたらすひんやりした映像感覚とあいまって、全編に静謐な不気味さを醸し出している。
こうした一貫したカラーを持つ一方で、撮影時のアングルや編集のリズム、自身の絵画の導入、CGによるエフェクトなど、一作ごとに新たなチャレンジや創意も感じさせる。映像に一層の格調高さを与えている久石譲の音楽(3作目以降)も「キタノ映画」には重要な存在である。
エピソード[]
2007年、第60回カンヌ国際映画祭に招待された際に、同じく映画祭に招待された松本人志が自身の初監督作品(『大日本人』)の試写上映の途中で席を立つ観客を見てショックを受けたことに対して、北野は「こんなことは当たり前だ。10年も映画監督をやればどうにかなる。他の監督より才能がある」と松本を励ましたという[10]。
なお、北野は生前の黒澤明と面識があり、北野は黒澤を大島渚と共に敬愛している。北野のベスト映画は『七人の侍』。また、東京スポーツ新聞社主催の「東京スポーツ映画大賞」では北野自らが賞を選定するが、北野は東スポ映画大賞の常連の受賞者でもある。
監督作品[]
- 『その男、凶暴につき』(1989年)
- 『3-4×10月』(さんたいよんえっくすじゅうがつ)(1990年)
- 『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)
- 『ソナチネ』(1993年)
- 『みんな~やってるか!』(1995年)
- 『キッズ・リターン』(1996年)
- 『HANA-BI』(1998年)
- ヴェネチア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)受賞作。
- 『菊次郎の夏』(1999年)
- 『BROTHER』(2001年)
- 『Dolls』(2002年)
- 『座頭市』(2003年)
- シッチェス・カタロニア国際映画祭グランプリ、ヴェネチア国際映画祭監督賞受賞。
- 『TAKESHIS'』(2005年)
- 『監督・ばんざい!』(2007年)
- 『アキレスと亀』(2008年公開予定)
事件・事故[]
フライデー襲撃事件[]
テンプレート:Main 1986年12月9日に、たけし軍団とともにフライデー襲撃事件を起こし逮捕。懲役6ヶ月、執行猶予2年判決(東京地裁、確定)。当時のレギュラー番組天才・たけしの元気が出るテレビ!!や痛快なりゆき番組 風雲!たけし城、スーパーJOCKEYへの出演を半年間辞退した。なお、女子大生に暴行で告訴された記者は罰金10万円の判決を受けた。
1987年、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と語った。
バイク事故[]
1994年8月2日午前1時40分。東京都新宿区の都道で飲酒運転での原付バイク事故を起こし、入院生活などで半年間テレビへの出演が出来なかった。酒気帯び運転にて書類送検されたが起訴猶予。退院時、暫くは顔面の半分が麻痺した状態であった。リハビリにより回復したが、復帰当時は「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と自らの怪我をネタにした。
テレビ朝日「やじうまワイド」で大島渚は「僕は彼の心情を想うと、友人として何も言う気にはなれない」とコメントした。
上記事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に既に亡くなっていた逸見政孝が出てきたという。たけしは、「あれは、まだ俺が死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんだろうな」と、退院後のインタビューで答えた。
価値観[]
数学[]
理系学部出身であった事からも分かるように、数学に対する造詣は深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語っている。また、かつて「ここがヘンだよ日本人」に出演した少女の、「数学なんか学んで何になる」という言葉に対し、「世の中の全ての現象は数学に支配されており、数学で説明できる」と語った一方で、「平成教育委員会」の算数の授業で、「数学は答えさえ合ってれば良い」と理系出身者とは思えない理由で、論拠が誤っている正解者を優等生に選出したこともあった。
環境問題[]
1992年、『新潮45』の連載にて「『地球にやさしく』なんかできない」のタイトルで、当時の政財界やマスコミによる「エコロジーブーム」の欺瞞性および浅薄さを皮肉った[11]。この「『地球にやさしく』- 」は同年6月18日付けの朝日新聞に「ビートたけしと地球環境」と題した、環境問題への無関心を戒める社説が掲載されるなど反響を呼んだ。このことについてたけしは「芸人の言っていることをいちいち真面目に取り上げるな」と『新潮45』の連載および『世紀末毒談』で述べた。なお、この評論は1996年の山形大学教育学部の入学試験の小論文試験の出題にも使用された。
スポーツ[]
サッカー(Jリーグ開始以前の国内・海外選手に詳しい)や野球をこよなく好み、長嶋茂雄を敬愛している。草野球チーム(『たけし軍団』)では投手を務めることもある。野球をする時のたけしは真剣であり、川崎球場での番組収録中、グラウンドに男性アイドルが登場したため女性ファンの歓声により、試合どころではなくなってしまった。その際に誰よりも早く「ここはグラウンドで野球をやってるんだぞ!コンサートじゃねえんだ!」とスタッフを一喝した。
神宮外苑の軟式球場が一種のホームグラウンドで、最盛期は年間70試合近くも行い、1991年の阪神タイガース・ファン感謝デーで軟式ルールながら阪神に勝利した。作家・伊集院静が連載していたエッセイ『二日酔い主義』の中には、たけしと一緒にプレーをした記憶に触れる回が幾つかあり、『たけしのグローブ(伊集院静『あの子のカーネーション』文藝春秋、 1989年)』では、たけしの使い込まれたグローブに強かな野球少年の面影を重ねて描かれていた。
格闘技ではボクシングを好み、自身もジムに通った経験を持つ。映画の中で人を殴るシーンや『座頭市』における逆手切りのフォームには影響が垣間見える。浅草時代を知る石倉三郎は「タケちゃんのケンカはボクシングスタイルで結構パンチも早かった」と述べている。なお、たけし自身は1963年の高山一夫 vs 勝又行雄戦、1971年の金沢和良 vs ルーベン・オリバレス戦をベストマッチに挙げている。その一方で、1987年のたけしプロレス軍団にまつわる騒動において苦い経験もした。また、空手で骨折し拳の一部が変形している。
一方で、鉄棒の逆上がりや跳び箱といった器械体操の類は不得意であり、跳び箱ができないことは後にたけしの出演番組内でもネタにされ、「たけしの跳び箱オリンピック」と題した苦手克服企画が1988年の年末に放送された。
タップダンス・ピアノ[]
漫才ブームが過ぎ、次代に生き残る為の材料を思索していた時期、たけしはテレビの更なるバラエティショー化が進むと予想し、「タップとピアノ位はやれないとみっともねえだろ」と考え[12]、たけし軍団でもタップ・楽器・太神楽(ジャグリング)が必修科目となった。その中で太神楽は海老一染之助・染太郎を師匠として学んだが、染之助の技は花柳流名取であったことに由来すると知り、日本舞踊も習うようになった。
タップダンスに対する思い入れは深く、毎日練習を欠かさず行なう。映画「座頭市」の撮影では踊るシーンが無いのにも関わらず練習をしていた。海外に渡航する際ですらタップシューズを持参するという。
ピアノを弾くのはバイエル、ツェルニー、そしてソナチネ(練習曲から本格的な楽曲へ移る分岐点にあたる)までで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。ピアノ奏者レベルまで目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だと語った。
写真[]
「究極の映画とは、10枚の写真だけで構成される映画であり、回ってるフィルムをピタッと止めたときに、2時間の映画の中の何十万というコマの中の任意の1コマが美しいのが理想だと思う。例えば女性のヌードを撮影するってのも、ただ裸の女が出てるだけではなく、ストーリーの中で女が脱いでいくというものであり、グラビアは映画の原型みたいなものだと思う」と『写真』について語っている[13]。
家族・縁戚[]
父の叔母で実質の祖母である北野うし(1877年生)は明治時代に娘義太夫の花形であった。2人の兄と1人の姉がおり、次兄はタレントで明治大学教授、工学博士の北野大である。妻は元漫才師の北野幹子(旧姓・松田)、長男、長女の井子。レーシングドライバーの松田秀士は義弟である。 たけしが芸人を志したとき北野家の誰もが反対したが、長兄の妻(たけしにとっては義姉)だけは「武さんは必ず出世する」と断言したという。
人物[]
人間は「振り子」であるとして、「思い切り悪いことのできる奴は思い切りいいこともできる、思い切りバカなことのできる奴は思い切り真面目なこともできる」とし、映画監督として評価を得た後もバラエティ番組に出演することにはそうした理由もあるとコメントした。
自称は「俺」「僕」「オイラ」。それぞれ場の雰囲気に合わせ使い分けている。「オイラ」は下町・職人言葉の位置づけで、自身が育った島根町が職人街だったことと関連するとしている。かつて足立区の広報誌から受けたインタビューでは「足立は東京の下町だね。その足立の下町が島根だというの。島根は下町の中の下町。足立の中の足立だって思うんだよね」とコメントした。
たけしの物真似をする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(ただし、たけし本人は1990年代以降はあまり見せなくなっている)は癖ではなく、ツービート時代に「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頚椎を負傷したことによると、『週刊ポスト』の連載コラムで述べている。
評価[]
1981年、文芸評論家の鶴見俊輔は『広告批評』誌上における座談の中で、「ツービートはがきデカの位置に似ている」と評し、文芸評論家・高澤秀次はこの評を絶賛した。
1983年、吉本隆明は栗本慎一郎との対談集の中で、たけしの話芸を「自分を異化することによって自然の流れとしてしまう芸風」と評した[14]。この本は著名な知識人がお笑い芸人を真正面から評論したという点で各方面の反響を呼んだが、一方で的外れだという批判も大きかったテンプレート:要出典(のちにたけしは栗本と対談。後日、作家の小林信彦に「ああいうインテリはお笑いがわかってないのが、よくわかりましたよ」と洩らしたというテンプレート:要出典)。のちに吉本が「海燕」誌上で埴谷雄高と論争(1985年)になった際、たけしは『もっと阿呆になれ、吉本!』という文章を発表し「吉本さんは言い回しが難解」と指摘した。
色川武大は「才能は切れるが、それだけにいいところを一人占めしようとしすぎる」とし、榎本健一・藤山寛美・萩本欽一と並べて「自分の手足を切ってゆく」タイプの芸人に分類した(対極として、古川ロッパ・森繁久彌・タモリの名を挙げた)[15]。
一方で否定的な論評の一例としては1981年、ルポライター・鎌田慧が「ツービートの残酷ギャグはファシズムの兆し」と批判した[16]。またルポライター・吉岡忍は、ツービート(ビートたけし)をジョン・レノン射殺事件の犯人マーク・チャップマンに重ねて論じるほど忌諱していた(が、のちに吉岡はその認識を変え、北野映画のルポルタージュを執筆するほど関心を寄せるようになった)。
それ以外にも辛淑玉、佐高信や諸井薫がたけしの軍団に対する態度を「権威主義的で弱い者いじめをしている」とそれぞれコラムなどで述べている。これら批判的な論評について、たけしは「冗談と本気の区別が付かない奴らがいる」と評している。
田中康夫は、たけしを自らと同じく「価値紊乱者」(既存の権威への挑戦者)としつつも、1980年代中盤には『感覚の倫理学』および『ファディッシュ考現学』にて立川流への入門や軍団創設を「肩書きや権威など精神的ブランドに頼るようになり(当時たけしがなりたいと語っていた)日本のレニー・ブルースになりそこねた」と評した。一方でたけしの過激な言動に隠された内面の繊細さもまた指摘し、フライデー襲撃事件の際にはフライデーの取材姿勢を批判し、たけしに擁護的な立場を取った[17]。その後田中はたけしとテレビ番組でたびたび共演するなど交流も持ったが、その後も「ドナルドダックのように嫌われることも厭わず本音で周囲に毒を吐く存在であったはずが、嫌われることを恐れ人気者であり続けようとミッキーマウスのように無難な優等生的発言しか行わなくなりつつある」といった意味の論評も『神なき国のガリバー』や『ニッポンご託宣』にて並行して行っている。またバイク事故直後にあえて顔面麻痺状態で会見に臨んだことに関しては評価したが、その後の本格復帰については「芸能界の一線からは退いた方が良かったのではないか、取り巻きや軍団を養うためだとすれば自活を促すべきだった」と評した。
映画出演作品[]
戦場のメリークリスマスで注目され、Johnny Mnemonicでハリウッドデビューも果たした。自分以外の作品に出演する際は監督に意見しないようにしているという。
- ゆけゆけ二度目の処女(1969年、エキストラ出演)
- まことちゃん(1980年、アニメ映画に声優で本人役カメオ出演)
- すっかり…その気で!(1981年、初主演作品)
- マノン(1981年)
- 戦場のメリークリスマス(1983年、大島渚監督、友川かずきの代役)
- 十階のモスキート(1983年、崔洋一監督)
- 哀しい気分でジョーク(1985年、瀬川昌治監督)
- 夜叉(1985年)
- コミック雑誌なんかいらない(1986年、滝田洋二郎監督)
- ほしをつぐもの(1990年)
- 教祖誕生(1993年、天間敏広監督、たけし原作)
- Johnny Mnemonic(1995年、ロバート・ロンゴ監督)
- Tokyo Eyes(1998年、ジャン・ピエール・リモザン監督)
- 御法度(1999年、大島渚監督)
- バトル・ロワイアル (映画)(2000年、深作欣二監督)
- バトル・ロワイアル 【特別篇】(2001年、深作欣二監督)
- バトル・ロワイアルII 【鎮魂歌】(2003年、深作欣二・深作健太監督)
- 血と骨(2004年、崔洋一監督)
- ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発(2008年、河崎実監督)
2024年現在の出演番組[]
レギュラー番組[]
- 世界まる見え!テレビ特捜部(日本テレビ)
- たけしのコマ大数学科(フジテレビ)
- 奇跡体験!アンビリバボー(フジテレビ)
- ビートたけしのTVタックル(テレビ朝日)
- 最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学(ABC)
- たけしの誰でもピカソ(テレビ東京)
- チャンネル北野eX(フジテレビ721)
単発・不定期番組[]
- 平成教育委員会スペシャル(フジテレビ)
- たけしの日本教育白書(フジテレビ)
過去の出演番組(レギュラー番組のみ)[]
NHK総合
- 北野武の宵越しスーパートーク(1998年元旦、井上ひさし・諏訪内晶子・市川猿之助との対談)[18]
日テレ
- テレビに出たいやつみんな来い!!
- わっ!!ツービートだ
- OH!たけし
- 蝶々・たけしの21世紀まで待てない!
- スーパージョッキー
- 天才・たけしの元気が出るテレビ!!
- ビートたけしの全日本お笑い研究所→番組の途中ですが…再びたけしです
- ビートたけしのお笑いウルトラクイズ
- 新橋ミュージックホール
- 世界超偉人伝説
TBS
- たけしのお笑いサドンデス
- たけしのホッカホッカタイム
- 笑ってポン!
- 世界まるごとHOWマッチ!!
- ギミア・ぶれいく
- たけし・所のドラキュラが狙ってる
- 風雲!たけし城
- ここがヘンだよ日本人
- 総天然色バラエティー 北野テレビ
フジテレビ
- たけし・逸見の平成教育委員会
- FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島(1987、90)→FNSスーパースペシャル1億2000万人のテレビ夢列島91’→平成教育テレビ→FNSの日[19]
- ビートたけしのつくり方
- たけしのここだけの話
- 北野ファンクラブ
- 北野富士
- 足立区のたけし、世界の北野
- たけしの斉藤寝具店
- タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ
- たけしの日本教育白書
- 北野タレント名鑑
テレビ朝日
- ビートたけしのアイドルパンチ
- ビートたけしのスポーツ大将
- スポーツシャワー~ヒーローに花束を~
- 神出鬼没!タケシムケン
- ビートたけしのD-1グランプリ
- たけしの万物創世紀
- たけし・所のWA風が来た!
- ビートたけしの!こんなはずでは!!
- たけしのポリスアカデミー
テレビ東京
- 気分はパラダイス!
ラジオ出演番組[]
- ビートたけしのオールナイトニッポン(ニッポン放送)
- 街でいちばんの男 ビートニクラジオ(TOKYO-FM)
- ビートたけしの文学夜話(NRN番組)
CM出演[]
大橋巨泉と共演のCM(「アサヒ生ビール」)は撮影終了後、フライデー襲撃事件の影響で放映されず(なお、CMのスナップショットは大橋の自伝『ゲバゲバ70年!』の中で見る事が可能)。1984年、「スーしませう」のキャッチコピーで発売された「白仁丹」や、ペプシの比較CMをパロディ化した『デミュートサンスター』で企画・演出に関わった。
2007年からロシアCIS地域でPANASONICブランドの薄型テレビのCMに出演。同CM広告担当者によると、「日本の有名人が単独で海外の国々でCMモデルになるのは初めてではないか」との事。
主演ドラマ[]
★印は連続ドラマ。
- 刑事ヨロシク(1982・TBS)★
- 昭和46年 大久保清の犯罪(1983・TBS)
- 学問ノススメ(1984・TBS)★
- イエスの方舟(1985・TBS)
- 立体ドラマ5時間 1987年の大晦日「昭和大つごもり」(1987年・フジテレビ)※倉本聰とたけし夢のコラボ。
- 浮浪雲(1990・TBS)★ - 視聴率的には振るわず、自身でもしばらくの間「はずれ雲」とネタにしていた。
- 忠臣蔵(1990・TBS)大石内蔵助役
- 実録犯罪史シリーズ 金(キム)の戦争 ライフル魔殺人事件(1991・フジテレビ)
- 説得 エホバの証人と輸血拒否事件(1993・TBS)
- 兄弟(1999・テレビ朝日) - 原作・なかにし礼
- 三億円事件(2000・フジテレビ)
- 明智小五郎対怪人二十面相(2002・TBS)
- 火曜サスペンス劇場・松本清張スペシャル 鬼畜(2002・日本テレビ)
- 松本清張没後10年記念 張込み(2002・テレビ朝日)
- 松本清張 点と線(2007・テレビ朝日)鳥飼重太郎役
著作物[]
連載コラムや著書の文章の殆どは、本人が多忙であるため、北野武が口述し、それをライターに文章として起こしてもらっている(『コマネチ!2』にて、本人のコメントによる)。
北野武名義[]
- 余生(2001.2.25 ロッキングオン)
- 孤独(2002.7.26 ロッキングオン)
- 時効(2003.9 ロッキングオン)
- 異形(2004.12 ロッキングオン)
- 光(2005.11 ロッキングオン)
- 武がたけしを殺す理由 全映画インタヴュー集(2003.9 ロッキングオン)
- イチロー北野武キャッチボール(2003.7 ぴあ)
ビートたけし名義[]
- たけし! オレの毒ガス半生記(1981.11.20 講談社)
- ビートたけしのごっくん日本史(1982.10.25 リヨン社)(ゴーストライター作と言われているテンプレート:要出典)
- ビートたけしの変態志願(1982.12.5 KKベストセラーズ)
- 恐怖びっくり毒本(1983.8.5 KKベストセラーズ)
- ビートたけしの幸せ独り占め(1981.12.5 オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
- ビートたけしの幸せになってしまいました(1982.10.20 オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
- ビートたけしの三国一の幸せ者(1982.12.5 オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
- ビートたけしの無条件幸福(1983.12.20 オールナイト・ニッポン リビングマガジン)
- ビートたけしのニッチもさっちも(1984.12.15 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
- ビートたけしの幸か不幸か(1985.12.16 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
- ビートたけしの不幸中の幸い(1986.12.16 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
- ビートたけしの全面幸福(1988.5.9 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
- ビートたけしのその男幸せにつき(1990.1.5 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
- ビートたけしの幸せ丸十年(1990.11.22 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
- ビートたけしのウソップ物語(1983.9.1 話の特集)
- ビートたけしのしまいにゃ笑うぞ(1983.4.10 スコラ/講談社)高田文夫との共著
- ビートたけしのみんなゴミだった(1983.11.27 飛鳥新社)
- 午前3時25分(1983.12.10 太田出版)
- ギャグ狂殺人事件(1984.2.25 作品社)(ゴーストライター作と言われているテンプレート:要出典)高田文夫との共著
- たけしくん、ハイ!(1984.5.1 太田出版)
- たけし吼える!(1984.9.23 飛鳥新社)
- あのひと(1985.8.20 飛鳥新社)
- 午前3時25分増補改訂版(1986.6.13 太田出版)
- 新・坊ちゃん(1986.6.19 太田出版)
- KID RETURN(1986.12.8 太田出版)
- 少年(1987.11.12 太田出版)
- 浅草キッド(1988.1.24 太田出版)
- 教祖誕生 第一部(1990.12.10 太田出版)
- 仁義なき映画論(1991.11.25 太田出版)
- 場外乱闘(1992.9.12 太田出版)
- こんな時代に誰がした! 場外乱闘2(1993.10.17 太田出版)
- 漫才病棟(1993.5.30 文藝春秋)
- 落選確実選挙演説(1994.6.15 新潮社)
- 顔面麻痺(1994.12.9 太田出版)
- 女につける薬(1993.2.10 祥伝社)
- 女は死ななきゃ治らない(1994 祥伝社)
- それでも女が好き(1995.8.5 祥伝社)
- 愛でもくらえ(1999.2.10 祥伝社)
- 毒針巷談 (北野武名義)(1984.8.10 太田出版)
- 続毒針巷談(1985.9.30 太田出版)
- 続々毒針巷談(1986.10.1 太田出版)
- 新毒針巷談(1988.7.31 太田出版)
- ビートたけしの世紀末毒談(1991.11.10 小学館)
- ビートたけしの世紀末毒談 目には目を毒には毒を(1992.5.20 小学館)
- ビートたけしの世紀末毒談3 (1996.5.1 小学館)
- だから私は嫌われる(1991.6.10 新潮社)
- やっぱり私は嫌われる(1991.12.20 新潮社)
- みんな自分がわからない(1993.5.25 新潮社)
- たけしの死ぬための生き方(1995.3.25 新潮社)
- みんな~やってるか!(1995.1 扶桑社)
- たけしの20世紀日本史(1996.2.29 新潮社)
- 草野球の神様(1996.10.20 新潮社)
- ザ・知的漫才 ビートたけしの結局わかりませんでした(1996.9.25 集英社)
- 私は世界で嫌われる(1998.2.20 新潮社)
- たけしの「号外」!!(1998.5.11 洋泉社)
- コマネチ!ビートたけし全記録 (1999.6 新潮文庫)
- 菊次郎とさき(1999.12.5 新潮社)
- 偽善の爆発 時事問題講義(2000.10.30 新潮社)
- 頂上対談(2001.10.20 新潮文庫)
- コマネチ!2 −BROTHER大特集(2001.12.8 新潮社)
- ビートたけしの黙示録(2001.11.30 徳間書店)
- コマ大数学科特別集中講座 ビートたけし・竹内 薫(2006.12.27 扶桑社)
- ビートたけしの21世紀毒談(週刊ポスト:連載コラム)
写真集[]
- 武風 たとえば風のように(写真集)(1986頃 O.P.F.C)
- たけし軍団(写真集)(1987.11.18 太田出版)
音楽制作[]
歌唱作品[]
- 俺は絶対テクニシャン(来生えつこ作詞・遠藤賢司作曲)
- BIGな気分で歌わせろ(柳川英巳作詞・大沢誉志幸作曲)
- OK!マリアンヌ(大津あきら作詞・鈴木キサブロー作曲)
- 抱いた腰がチャッチャッチャッ(大津あきら作詞・大沢誉志幸作曲)
- TAKESHIの、たかをくくろうか(谷川俊太郎作詞・坂本龍一作曲)
- I'll be back again...いつかは(TAKESHI&HIROKI名義、関口敏行・伊藤輝夫(テリー伊藤)作詞・BABA作曲)
- 浅草キッド(ビートたけし作詞・作曲)
- GOD BLESS YOU~神の御加護を~(ビートたけし&ザ・常夏's名義、ダンカン作詞・奥野敦士作曲)
- 嘲笑(ビートたけし作詞・玉置浩二作曲)
- 友だちじゃないか(ぢ・大黒堂名義、トータス松本作詞・作曲)
作詞提供[]
- チポップ(宮沢りえ)
参加したコンピュータゲーム[]
- たけしの挑戦状(タイトー)
- たけしの戦国風雲児 (タイトー)
- ファミリートレーナー 突撃!風雲たけし城』 (バンダイ)
写真家[]
- 「無題」(1994年 竹書房発行 月刊ザ・テンメイ94年秋臨時増刊号「Super Tenmei」掲載)
- バイク事故直前に撮った(雑誌は事故後発売)、写真家としての処女作品。
- 「ORA-ATAI」(1998年 新潮社発行 新潮45別冊2月号「北野武責任編集『コマネチ!』ビートたけし全記録」掲載)
- 学ラン姿のガダルカナル・タカとセーラー服姿の井手らっきょ(スキンヘッドそのまま)がカップルに扮し東京見物するコンセプト。
- 「海から来た、おんな」(2002年 小学館発行 02年2月1日号「週刊ポスト」掲載)
その他[]
- 東京スポーツ新聞社客員編集長、東京スポーツ映画大賞審査委員長
- レジオンドヌール勲章授与(1999年)
- 明治大学特別功労賞授与(2004年)
- 東京芸術大学大学院教授(2005年より)
- イタリアの第10回ガリレオ2000賞・文化特別賞を受賞(2006年)
- 日本数学会出版賞を受賞 (2008年) [1]
脚注[]
- ↑ 後年これに続けて「死に場所探して生きるもよし」と加えた詞を作り、『死んだ犬』として発表した(作曲:泉谷しげる)
- ↑ 小水は『ほしをつぐもの(1990)』で、若松は『エロティックな関係(1992)』で、再びたけしを撮った
- ↑ 100単位以上を取得しながら何らかの理由で通学できなくなった人物に与える制度。
- ↑ 北野武氏へ明治大学特別卒業認定証ならびに特別功労賞を贈呈、2004年9月
- ↑ 『驚きももの木20世紀 - 伝説の浅草芸人・深見千三郎と最後の弟子』朝日放送、1996年
- ↑ ビートたけし『浅草キッド』新潮社〈新潮文庫〉、1992年(文庫版解説) ISBN 978-4101225128
- ↑ ビートたけし『午前3時25分!』 『平凡パンチ』平凡出版株式会社、1983年 ISBN 978-4900416000
- ↑ せんだみつお『ナハ』東京書籍、2002年 ISBN 4487797144
- ↑ フジテレビからオファーのあった後番組の司会をたけしは断り、代わりに『笑っていいとも』が開始された
- ↑ スポーツニッポン 2007年5月23日号
- ↑ 『みんな自分がわからない』1993年、新潮社 ISBN 978-4103812036
- ↑ 景山民夫『極楽TV』JICC出版局、1985年 ISBN 978-4880631363
- ↑ 「週刊ポスト」 2002年2月1日号
- ↑ 栗本慎一郎・吉本隆明『相対幻論』冬樹社、1983年(1985年に角川文庫に収録) ISBN 978-4041501054(角川文庫版)
- ↑ 色川武大『なつかしい芸人たち』新潮社、1989年 ISBN 978-4103311041(「銀座百点」掲載、1987年)
- ↑ 「ファシズムみんなで進めば怖くない」『朝日ジャーナル』朝日新聞社、1981年
- ↑ 『たけし事件 - 怒りと響き』太田出版、1987年 ISBN 978-4900416284
- ↑ 井上ひさしとの対談は(井上ひさし『浅草フランス座の時間』文春ネスコ、2001年。ISBN 4890361235)に再録
- ↑ 1992年~1996年は総合司会として参加、1987年はゲスト出演
参考文献[]
- 『コマネチ!―ビートたけし全記録』新潮45 別冊2月号、新潮社、1998年。
- 『ユリイカ―北野武そして/あるいはビートたけし』2月臨時増刊、青土社、1998年。
外部リンク[]
- OFFICE-KITANO WEB SITE
- 日本映画データベース 北野武
- 明大広報546号(明治大学:特別企画 北野武氏座談会−知られていなかった明大時代を語る-)
- 明大広報547号(明治大学:特別企画 北野武氏座談会(続−「粋」に生きていこう−)
テンプレート:ビートたけし
bg:Такеши Китано
ca:Takeshi Kitano
cs:Takeši Kitano
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eo:Kitano Takeshi
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it:Takeshi Kitano
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